4月6日発売・Player SPECIAL April Issueはお手にしていただけましたでしょうか。同誌には高橋ちえが昨年から企画してきている対談シリーズ・第12弾として LOW IQ 01(以下イチ)さん&渡邊忍(ASPARAGUS、Noshow/以下しのっぴ)さんの対談を掲載しました。今回、長すぎるだろうっていうぐらい長い(笑)前置きで本誌の方に対談の企画意図を記載しているのでそちらをお読みいただきつつ、本誌には掲載していない(いや、出来なかった?)こぼれ話を早速、こちらでお楽しみください。
イチさん、しのっぴさんにもお兄様がおられてさらにイチさんはアイゴン(會田茂一)さんが先輩におられて音楽的な影響を受けてきたお話は本誌に記載していますが、そもそもお2人が“音楽をやる”という衝動に突き動かされたのは何だったのでしょう?
イチ:4つ上の兄貴が俺が小学生の時に中学生で、80年代のあの当時の最新を聴いてたのよ。兄貴の部屋から流れてくる音楽が最初は日本の音楽で、皆が見てる(TV番組の)ザ・ベストテンとかの歌謡曲から始まってYMO、ニューウエーヴとかを聴いていく中でRCサクセションとかアナーキー、ザ・モッズやザ・スターリンとか日本のハードコア・パンクを聴くようになって。それと同時にベストヒットUSAの時代・ニューロマンティックの時代でMTVとかも出て来た頃で、普通に海外の音を耳にするようになって。っていう流れなんだけど、本当の原点は小学校の時に聴いたセックス・ピストルズにはなるのかなぁ。それで84年だね、中目黒の質屋さんでヤマハのベースを買った(笑)。
シド・ヴィシャスへの憧れですか、スタートからベースだったのですね。
イチ:一番最初はそう。でも(楽器も)ファッションから入るから、ザ・クラッシュのポール・シムノンの方が好きで、買ってすぐペイントしたの。弾くよりまずペイント(笑)。見た目、やっぱり見た目は大事だよね。で、今度はギターも欲しくなっちゃうのよ、だから転々と(楽器どうし)物々交換しちゃって(最初のベースは)もう手元にはないんだけど。ベースを始めた時っていうのは兄貴の周りで楽器をやってる人がいっぱいいて、ピストルズのコピーをやるのを付き合ってくれたりして、それでレスポールでディストーションの音を聴いたの。その時に“これがスティーヴ・ジョーンズの音だ!”って思ってそれでベースを止めてギターを弾いたの(笑)、「Pretty Vacant」(77年)のイントロとかもすぐに弾けて、ギターの方が全然楽しい!って。ベース始めて半年後ぐらいにはギターに変わって、そこからはずーっとギターを弾いてた。忍たちの時代ってちょうどバンドブームとかもあって一斉に皆で楽しく出来たと思うんだけど、俺たちの頃ってヤンキー全盛の時代で暴走族とかもいたし(笑)、パンクも毛嫌いされた時代でまだ学校で楽器やっている人もそんなにいなくて、1人いるかぐらいのもんで。だから自分で、ベースもやるかドラムもやるかってなっちゃって色々な楽器をやるようになっちゃった。
忍:僕もその話の流れで行くとドラムから始めたんですよ、やっぱりドラムをやる人がいなかったから。中学1〜2年ですかね、ちょうどイカ天(=TV「三宅裕司のいかすバンド天国」)ブームで、1個上の先輩がバンド始めたのを見てカッコ良い〜、俺らもやろう!ってなってバンド組もうってなると、ドラムって人気ないんですよ。
イチ:ドラムはお金かかっちゃう、って思うのかもね。家でギターとかベースは弾けるけど、ドラムはスタジオに入らなきゃとかだから。
忍:そういうのもあるかもしれないですね。まぁ僕に関しては、基本的に音楽が好きな上で、“皆と何かをする”っていうのが楽しい感じがまず1つあったから結局、バンドがどうのというよりも、皆で集まって楽しいことをしようっていう1つのツールとしてバンドがあったと思う。だから楽器は最初は何でも良かったんですよね、ギターでなくとも。それでドラムから始めたら(バンド・音楽に)のめり込んでいくし、元々子供の頃から、頭の中で適当だけど作曲をするのが好きで小学校からメロディを勝手に作ったりしてたから、メロディで“歌を作る”みたいなところから、ちょっとずつ音階があるギターに興味を持ち始めて。たまたまウチの父がなぜか流しの演歌の人に憧れてて(笑)、それが流行ってた当時の人なので、家にクラシックギターが何本かあったんですよ。それで(父は)Aマイナー、Eマイナー、Dマイナーの3コードだけグルグル回して弾いてましたけど(笑)。
イチ:やっぱりマイナーなんだね(笑)。
忍:全マイナーでしたね(笑)。それでギターがあったから、押さえ方も何も知らないけど音は出る、音が出れば適当に触ってるうちに和音になって、“これで曲がつくれるじゃん?”って。最初はギターの1・2弦だけで曲を作ったりしてましたね。ピアノにしてもそうだけど、鍵盤を押して気持ち良い音は絶対にコードだから。そういう感覚でギターはやり始めたけど(バンドでは)ドラムだったので、で、高校になって分かったんですけどドラムってやっぱり動けないんですよね。僕って性格的につんのめり系で(前に)出たいって言うか、僕の中でのボッキズム…いや、ルッキズムって言うんですか(一同笑)、それが出て来ちゃいまして。
イチ:頭ひとつ出て来ちゃったんだよな、剥けて来ちゃったわけね(笑)。
忍:そう、ズル剥けたいって言うか(笑)、前に行きたいっていう気持ちがすごく強くなっちゃって。それでギターを始めたんですよ。ギターだけにとどまれば良いのに、今度は歌いたくなっちゃって、どんどん前に出たいって(笑)。そのぐらい前に行きたくなっちゃうんですよね。
(笑)、では高校の時にはギター&ボーカルというスタイルで。
忍:そうね、それでオリジナル曲も作って、みたいな感じでやってましたね。
イチ:忍はそれで、“ハマっ子”って感じがするよね。俺は東京っ子で。
“ハマっ子”感はどこに感じますか?
イチ:これは完全に褒め言葉なんだけど、インテリジェントですごく教養があると言うか。横浜の人の音って洒落てるなって思うし、忍にはそれを特にすごく感じる。
忍:全員が全員そうじゃないけど、雰囲気としてはカッコつけてる人が多いなっていう印象もあるかな。それが洒落てるっていうことなのかもしれないけど、皆良くも悪くもカッコつけあう印象っていうのが僕の中ではあるし、僕の中では実はちょっと冷たい印象もあるんですよ。あったかいんだけど冷たい…上手く言えないんだけど、うーん、クマムシみたいな感じ?
“あったかいんだから〜”ですか…。
忍:すみません、ちょっと言ってて自分でも分かんなくなっちゃいました(笑)。
イチ:そこが洒落てるってところじゃないかなと思うんだけどね(一同笑)?
忍:“冷たい”じゃなくて、“クール”って言えば良いのかな…言い方が?
イチ:そう、“冷たい”ではないんだけど、洒落かたが…東京の洒落かたとはちょっと違うんだよね、横浜は。俺の勝手なイメージなんだけど、ベース(=基地)とかそういうものが近くに横浜ってあるなと思って、それだからカッコ良いっていうのもあるのかな。
何となくですがニュアンスが理解できてきました、例えばスペアザ(=SPECIAL OTHERS)の音はスタイリッシュだけどメンバーたちは音楽に熱い、みたいなところがあるイメージですものね。逆にしのっぴさんが“東京っ子”の音楽に対して違いを感じたことなどはありました?
忍:シンプルに、良いなぁって思ってましたね。それは何て言うんだろう、もうちょっとフランクな感じがして。やっぱり情報も多いし人も多いから、受け入れてくれる態勢が多そう。良い意味でミーハーなところがあって、どんなことでも面白いじゃんって言う人がいるところが僕は好きもしれない。その点横浜の方は頭がちょっと硬い感じで、ある程度の時代を引き継いだそのスタイルを継承していくっていう印象。
でもやっぱり“横浜”っていう場所はブランドというか、歴史がありますもの。
忍:赤い靴を履いてた女の子が異人さんに連れられて行っちゃってる(=童謡「赤い靴」)、それでどこ行っちゃったのかな〜?っていう、そこからですよね。それで皆、うーん、疑心暗鬼になっちゃってるんですよね(一同笑)。やっぱり東京の方が…あれだけフルボッキの真っ赤な東京タワーもありますし、
イチ:今は青いの(東京スカイツリー)がどんどん伸びてるからね。
忍:押し上がっちゃってますよね(※スカイツリーは押上にある)。東京での仕事が増えて、欲張りだし東京で色んな人のノリやテイストも欲しいし見てて面白いし好きなんですけど、バンドの練習とか作業場も横浜だし、横浜魂みたいなものは残ってて(笑)。結局はどこにいても本人がどう生きていくかっていう問題なんでしょうね、って僕、極論おじさんなんで(笑)。
「Starting Over feat. the LOW-ATUS」
【対談後記】
東日本大震災が起こった当時、わたしは岩手県にいました。盛岡のライブハウス・クラブチェンジの前を通るたびに新しいライブのお知らせの張り紙を目にしていたのがパタっと更新されなくなり“公演延期”といった文字を目にし、頭では分かってはいても“この状態はいつまで続くのだろうか”と精神的な不安というのか、灰色の世界の中から抜け出せないのではと思いさらに気が重くなったりしていました。東北に限ったことではなく、ライブをすれば叩かれる。ラジオも同じで、選曲もすごく考えながらだったことをよく覚えています。そんな中で、震災から10日ぐらい経過した頃でしょうか。マキシマム ザ ホルモンへのリクエストがありました。“避難所にいてCDを聴けないどころか流されちゃったし。こういう曲も聴きたい気持ち、ちえちゃんなら分かってくれるよね!”…自分に迷いがなかったと言ったら嘘になりますが、ホルモンの曲をオンエアしました。今ならSNSの発達でクレームも目にしたのかもしれないけれど、あの時はあれで良かったと今は思えます。
震災からちょうど約1ヶ月、口火を切って盛岡でライブを行ったのはBRAHMANでした。チケット代は500円で、そこからほぼ毎週といっていいぐらいに盛岡ではライブが行われていくようになりました。ここでも前置きが長くなり(苦)すみませんが、イチさんもBRAHMANに続くような形でかなり早いタイミングでライブをしてくださったアーティストです。“面白おじちゃんでしょう〜”と何度も言いながらMCをしていたことを今も覚えています、会場にいた人を笑わせよう、と。人のことをまず第一に考えて、思いやりしかないイチさん。ステージ上でもステージを降りても、あの時から何ら変わっていません。
かたや、しのっぴさんはわたしの個人的な“お喋りの師匠”です。2019年まで毎年、岩手県の種山ヶ原という山奥(雑な紹介ですが、わたしの地元近くです)で開催されていたKESEN ROCK FESTIVALで、率先してゆるキャラたちとトーク(?)したりダンスしてくれたりでいつも大爆笑。昨年秋に復活ののろしを上げたミニイベントを同会場で行った際もアコギを持って参加してくれました。これ以外にも東北にはしょっちゅう来てくれていて、横浜っ子でもわたしにとっては東北に思いを寄せてくださっているアーティストというイメージが強いです。
上記のような思いがあって自分の中でお2人の対談は組みたい、だけど葛藤としてPlayerは音楽・楽器誌だから音楽的な部分でアプローチを考えないと、と思っていた中イチさんの最新作ではしのっぴさんが関わっている…そのお話は本誌に譲りますが、爆笑した部分は2人が良き関係であるその姿を皆さんの頭の中で思い描いてもらえるように文字にしたつもりです。同じく本誌の方で、イチさんが最後の方で語っている部分・しのっぴさんが引き出してくれたお話も個人的にはとてもグッと来ました。お2人のように関わる人を大切にしながら、その環境がハッピーでゴキゲンさんでいられるように、自分も歳を重ねていきたいなと思っています。
今回の撮影+対談場所を用意してくださったMobstyles(http://mobstyles.tokyo/)の皆さんと記念撮影☆
では4月20日・イチさんのツアーファイナル@Spotify O-Westで皆さんお会いしましょう!
Edit by CHIE TAKAHASHI Photo by KAZUTAKA KITAMURA
Player4月増刊Player SPECIALにて抱腹絶倒LOW IQ 01さん×渡邊忍さん対談を掲載!